日本兵に向けられたフィリピンの人々の憎しみ

2016年1月27日の報道ステーション書き起こし。


フィリピンで終戦を迎え、捕虜になった元BC級戦犯の宮本正二さん(94)。日本兵に向けられたフィリピンの人々の憎しみをいまだに忘れられないと語った。
「日本人『パタイ、パタイ』向こうの言葉で『死ね、死ね』と言うんですね。フィリピン人は『いい気味だ』と思って見ていたのでしょうな」

抗日ゲリラに参加したペドロ=マルコスさん(84)が語った。
「日本人はここで釣りをしていました。抗日ゲリラに見つかると、日本人は銃殺されました。当然フィリピン人たちはみんな日本人に対して怒っていました。ゲリラは日本兵の手首を縛ったまま腐らせるという行為をしていました。」

 大戦中、フィリピン人の犠牲者は110万人。戦場で巻き添えになっただけでなく、飢餓による犠牲者も少なくなかった。
 もともと食糧の乏しいフィリピンで、日本軍が地元の人々の食糧を奪い取ったからだ。飢えへの憎しみが全国で抵日ゲリラを生んだ。そして、ゲリラの疑いをかけられたものは、日本兵により、容赦なく殺されていった。

マニラ市街戦を目撃したハンドラさん(85歳女性)が語った。
「そこで血まみれの男性が走っていて、追いかけているのは日本兵でした。日本兵はその男性を紐で縛りました。私は怖くなり見ていないので、男性がどうなったかわかりません。2人の女性がこういうふうにかがんでいました。私の知り合いだったので『どうしたの?』と聞いたところ、彼女たちは『日本兵に暴行された』と言っていました」

 宮本正二さん(前述)は、フィリピン人の殺害に関わったとして、戦犯として起訴された。判決は死刑。憎しみは憎しみで返されるのか。宮本さんは、モンテンルパの刑務所でその時を待った。
 モンテンルパの刑務所長はアルフレド・ブニエ。彼の父は日本兵に殺されていた。しかし、戦犯への態度は寛大だった。5000も6000もの囚人のいる刑務所が断水したとき、ブニエは断水していない自分の官舎から水を運ばせた。宮本さんも、それで助かった。

ブニエが当時のことを、息子イグナシオ=ブニエさん(71)が語った。
「フィリピンの囚人に提供されたものは、日本人の戦犯にも提供されました。彼らは残酷だったが、父は日本人に同じ待遇をしました。私の父は、憎しみと暴力の連載は終わりにしなければならない。でなければ、また繰り返されると言っていました。」
そして、終戦から8年後、宮本さんは、無事日本に帰れることになった。
当時のエルピリオ・キリノ大統領が「特赦」を決断したからだ。

キリノ大統領の孫、ルビー=キリノさんが語った。
「キリノは一度も日本人に対する憎しみを口にしなかった。国民にも憎しみを広げることは一度もしなかった。キリノは憎しみの感情を心の内にしまっていた。」
 1945年2月9日、マニラ市エルミタ地区。激しい市街戦の最中、妻子四人(写真はキリノと家族)を目の前で日本軍の狙撃兵により殺されていた。
キリノ大統領が出した声明。
「私は妻と三人の子ども、五人の親族を殺されたものとして、日本人を赦す最後の一人となるだろう。」
キリノの決断を促した背景には、無数の日本人の嘆願書があった。そこには、戦争への反省とフィリピン国民への謝罪が綴られていた。

再びキリノ大統領の孫、ルビー・キリノさんが語った。
「複雑な決断だったと思います。誰も特赦に賛成していなかったのです。公式な赦免ではなく、大統領令で特赦を与えなければならなかった。上院も下院も完全に反対していたからです。1953年は大統領選の年でした。キリノは再選を目指す選挙選への影響があるにもかかわらず特赦をしました。キリノが望んだのは、近隣諸国、特に日本とのつながりを再び持つための扉を開いておくことでした。」

日本との未来を選択したキリノ。赦しの精神は歴代の大統領にも受け継がれ、反日感情は次第に和らいでいった。こうした歴史をどれだけの日本人が知っているだろうか。

古舘のコメント
「これを見てますとあらためて、フィリピン戦の現実、マニラ市街戦、もっともっと学校で繰り返し教えるべきだと強く思います。」

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