検証なき国家は変わるか 日経新聞2011年10月30日朝刊 風見鶏 (編集委員 坂本英二)

日本は検証しない。
それは国民性なのか、行政も政治も市民も「のど元過ぎれば熱さ忘れる」とばかりに、歴史に学ばない。

リヒャルト=フォン=ヴァイツゼッカー
(ドイツ第6代連邦大統領(1920~2015年)
1985年5月8日連邦議会における敗戦40周年の演説
より
過去に目をつむる者は、現在にも盲目であり、未来も同じ過ちを犯すだろう。

この言葉を知った時より、検証の大事さを私はことあるたびに思い出し、会議でも要望し続けてきた。
自分でもやる場合がある。
そのようにしてきて、やはり検証が大事だと考え、行動している。

以下、記事
 いま開かれている臨時国会は、2つの点で歴史に刻まれる。衆参両院の憲法審査会の始動、そして原発事故を受けた独立した調査委員会の設置である。
 現憲法の公布から改正原案を発議できる体制が整うまで実に65年を要した。原発事故調査委をつくる過程で壁になったのは、「民間人による徴証組織を国会に設けた前例はない」という声だった。
 この20年を振り返っただけでも、日本は難しい決断をいくつも迫られた。重要な政策判断について、国会が一度も第三者機関で検証したことがないという事実にまず驚かされる。

 1991年の湾岸戦争は、国際貢献のあり方をめぐる転換点となった。日本は130億㌦(当時で約1.7兆円)もの巨費を拠出しながら「カネだけを出して汗をかかない国」との厳しい批判を浴びた。
 数年前、当時の経緯を今どう評価しているのか聞かれた外務省幹部は自嘲気味にこう語った。
 「41年の日米開戦で外務省は対米覚書の清書と伝達に手間取り、真珠湾攻撃は『だまし討ち』と言われた。その責任すらあいまいなのに、湾岸戦争の総括ができるわけがない」

 93年のウルグアイ・ラウンド合意では、コメ市場の部分開放と引きかえに約6兆円の農業対策を決めた。90年代以降、バブル経済の後始末で金融機関に投入された公的資金は50兆円規模(うち現時点の損失確定は10兆円強)に上る。

 今回の原発事故調査委の旗振り役になった自民党の塩崎恭久氏は半年間、与野党議員を同じ言葉で説得し続けた。
 「日本は重大な原発事故を起こし放射性物質を大気中や海洋にまき散らした。その検証を当事者の政府だけに任せて、世界に対する責任が果たせるのか」
 念頭にあったのは米国の例だ。大恐慌後の30年代に米議会に置かれた「ペコラ委員会」。79年のスリーマイル島原発事故を受けた大統領直属の「ケメニー委員会」。2001年の米同時テロ、08年のリーマン・ショックでも詳細な調査報告書が公表された。
 自民党内ですら「わざわざ第三者機関をつくらなくても国会議員が審議すればいいじゃないか」との慎重論があった。各党が賛成して設置法の成立にこぎ着けたのが9月末。施行日は「国会召集から起算して10日を経過した日」、つまり10月30日である。
 専門家からなる民間委員は、衆参両院の合同協議会が決める。参考人の招致や資料提出を国政調査権でサポートし、半年後の報告書の提出までを法で規定している。事件や事故を受けた国会の報告書自体が「薬害エイズなどを除きほとんど例がない」という。

 10月10日、薄曇りのワシントン・グレス空港に参院の大調査団が降り立った。
 参院東日本大震災復興特別委員会の増子輝彦委員長(民主)を団長とし、与野党の15議員が参加。スリーマイル島の事故現場や原子力規制委員会などに足を運び、事故の検証結果がその後の政策にどう反映されたかを中心に調査した。
 増子氏は「フクシマと言うだけで相手の反応が全く違う。今回の事故への国際的な関心の高さを実感する旅になった」と語る。
 重大な出来事であればあるほど、責任を問われる側には守りの意識が働く。だが失敗を直視しないままで次の戦略は描けない。
 日本の原子力政策はどこで何を間違ったのか。いま議論せず、いつするのか。行政府から完全に独立した事故調査委は、「検証なき国家」の前例を変える可能性を秘めている。

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