岸和田の歴史 岸和田紡績などによる女工哀史と労働者の使い捨て

岡山県の東端、前島からも大坂城の石垣は切り出されている。
距離にして200㎞。
「その人らが頑張ったから偉大なピラミッドがあり城下町があって風情があるって事やな」などと、岸和田市民は呑気に言う。
だが、そんな能天気な評価に、私は水を浴びせざるを得ない。
頑張った?
奴隷として酷使されて、殺されまくってるのに?
そんな仕事したかった人などおらんやろ。
大阪で1番有名なのはどこか?
大坂城やろ。
大阪市の住民が、岸和田みたいに城下町などと言うか?

トヨタでも日立でも、企業城下町となっている街でも、それを言われる時は、批判される文脈でそう言われる。
民主主義があれば、城下町みたいな恥ずかしいことは言わない。
公害病でも、岸和田なら女工を奴隷扱いしまくったことも、負の歴史やから言わんやろ。
ただ、商店街の賑わいの写真を見せて、あの頃は良かったと言うだけ。
議員らにも、その写真の女性たちは誰やねんと言うたら黙る。
田舎から売られてきた女性や、朝鮮人が多数含まれているから。
岸和田は、被差別部落がないけど、その分、朝鮮人差別はよく聞く。
その時に「頑張った」人を称えているなら、朝鮮人差別をし続けたり、女性を未だに踏みつけ続けたりするかいな。

郷土の歴史として、岸和田では、だんぢりではなく、以下のような労働者を縊り殺してきた歴史を学校で教え、社会人も学ぶべきである。

岸和田紡績と朝鮮人女工の歴史フィールドワーク案内
下野町にある朝鮮人女工の墓は、銘板でも立てて、歴史資産とすべきですね。
 
カーネーションから戦争を考える。

岸和田紡績で働く女工たちの8割は地元以外の出身で、 被差別部落や沖縄出身者、朝鮮人であった(全体の約2割が朝鮮人)。 安価な労働力を確保するため、そうした地域に絶えず募集人が配置され、 ときに騙言や暴力をともないながら、募集活動を行っていた。
こういう話をすると「強制連行ではなく自由募集なのだから問題ないのではないか」 という意見が必ず出てくるが、経済格差を利用して過酷な労働現場に引き込み、 利潤追求の為に徹底して人間を酷使するという体制、またそれを支える思想そのものが問題であり、 それを問う視点が無い限り、今日本で働く外国人労働者たちも、 根本的にはずっと同じ状況が続くことになるだろう。

 一九三二年、満州国承認の祝賀行事の際、日満国旗を掲げて地車曳行、以来、国策に協力し、戦意高揚の為に、地車曳行は認められた。戦局が険しくなると曳行禁止、だが、岸和田の民衆は地車小屋付近で太鼓を叩き祭りを守る。
巡査もそれを黙認した。
時に地車が出征兵士を乗せて岸和田駅まで引かれたこともある。
一九四二年には普通船員養成所が岸和田紡績本社跡に開校、小学校高等科卒一四才の少年が全国より応募、僅か二カ月の猛訓練で海上勤務、魚雷を受けて死亡。
著者は「多くの少年が海に沈んだ」「遺骨も収集出来ず沈んだまま」と記している。

1945年七月二八日、岸和田中学校義勇戦闘隊が結成される。
本土決戦に備えての肉弾部隊とでもいえよう。以上の経緯を踏まえ、岸和田中学校の変貌を詳細に記している。
この間、岸和旧中学生は川崎重工泉州工場、佐野飛行場などで、朝鮮人、米軍捕虜と共に勤労動員、危険な作業場で事故続発、岸和田中学生の事故死者二名が生じた。
かつての岸和田中学・高校では、学徒動員中の事故なしと言われ、地域社会の住民もそう信じていた。
それは、国家や企業が災害事故を「名誉の為に」隠してきた為である。

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック